記憶障害が起こると、過去と現在がつながらず、自分が自分でなくなってしまいます。時間の経過そのものがすっぽり抜き取られるため、今現在、つまりその人が認識している過去、たとえば25歳であったり、50歳の世界に自分が存在することになります(準拠年齢)。すでに亡くなった夫の帰りを待っていたり、以前勤めていた会社に出勤しようとしたりします。出来事の記憶障害に合わせて、時間経過の感覚や場所の方角や人の認識までも消えてしまうのです。外で迷子になったり、トイレがわからなくなったり、娘を「妹」と思い込んだりするようになります。「ここはどこ?」「今はいつ?」「あなたは誰?」の不思議な世界に悩まされることになります。
84歳の女性、重度のアルツハイマー型認知症で、かなりの見当識障害があります。年齢を尋ねるたびに彼女の年齢は変わります。5分前は50歳代であったのに、尋ねると、18歳だというのです。50歳代の彼女はスタッフを「お姉さん」と呼びますが、18歳になったときには「おばちゃん」と呼びます。その時は、当然20歳代のスタッフも「おばちゃん」です。「おばちゃん」と呼ばれた若いスタッフは、彼女に向かって「私は、おばちゃんじゃないよ。おばちゃんはあなたのほうでしょ!」と返しました。すると彼女は、テーブルを叩いてスタッフへの怒りを表しました。時間の経過をなくしている彼女にとっては、今18歳の世界にいるのです。生きてきた人生を行ったり来たりしながら、今を生きているといわれています。
また、92歳の女性は「あなたは誰?」の世界にいます。もちろん今の居場所や時間もわかりません。彼女はスタッフの顔をじーっと眺めて「いい男だ、かあちゃん、子どもが待っているから早く帰りなー」と気遣ってくれます。「いい男」と言われたスタッフは、何とか女であることに気づいて欲しくて「私嫁に行こうと思ってるんだけど」と切り返したところ、「男嫁は聞いたことない」と軽く笑われてしまいました。
面会に来た娘さんには丁寧にあいさつをしている彼女、一方で戸惑う娘さん、男に間違えられたスタッフ、それぞれにいろいろな思いを巡らせています。